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2024年01月09日

新年あけましておめでとうございます。

 

信州教育出版社は,先週の金曜日,15日が仕事始めでした。長いことブログを中断しており,今年こそはと思っていましたが,今日になってしまいました。

最終のブログは,令和4年(2022)12月8日,『信濃子ども詩集』が完成したお知らせでした。そこで,「来年(令和5年)はいよいよ70集」と書きましたが,その70集,昨年の128日に発刊となっています。今回は,70集という節目ということで,大きく構成を変更しました。それについては,担当よりお知らせしましょう。

 

さて,令和6年(2024)の幕開けは,思いもよらない能登半島地震でした。コロナの状況もやや落ち着き,久しぶりに家族が集まるお正月だったのに。あまりにも甚大な被害に言葉もありません。当地の多くの小中学校は,本日が3学期の始業式だったという報道もありましたが,今は避難の場所となっています。被害に合われた方々に心からお見舞い申し上げます。

 

信教出版にとっての令和6年は,新しい小学校教科書の使用が開始される年となります。今回の改訂では,教科書の制作体制が大きく変わり,一つずつ問題をクリアしながらの制作でしたが,おかげさまで検定に合格し,全県で採択していただくことができました。デジタル教科書も新しい機能を盛り込み,シンプルですが使いやすい仕様になる予定です。そのほか,新しい教科書に合わせた新しい学習書の制作も大詰めを迎えています。

 

 これからの世界がどうなっていくのか,五里霧中というのが正直な気持ちです。それでも一生懸命考え,進むべき道を定め,それを目指してまいります。職員一同よりよい学習教材,そして書籍の発行に努めてまいります。

 

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。



(09:57)

2022年04月01日

ロシアがウクライナに侵攻して1か月と1週間がたった。4回目の停戦交渉が終了し,今までにない成果が報道されているが相変わらず戦闘は終了せず,TVでもネットでも,連日,悲惨な戦況が報道されている。

 

報道が始まったころ,ウクライナ,キエフ(ウクライナ読みのキーウとすることになったがこのまま表記する。)と聞いて,まず頭に思い浮かんだのは,ノンナのふるさとだということだった。1971年から集英社の少女漫画雑誌の草分け『りぼん』に連載されていた「アラベスク」の主人公で,当時夢中になって読んだ記憶がある。その後,白水社の『花とゆめ』で第2部の連載が始まり,足掛け5年の歳月を経て完結したバレエ漫画の金字塔である。

舞台は,1970年代のソビエト連邦(現在のウクライナ,ベラルーシなどを含む広大な国土を誇る社会主義国の雄)。新作バレエ「アラベスク」の主役モルジアナを踊る未完の大器を探すべく,ソビエト中のバレエ学校を訪れていたレニングラード・キーロフバレエ団の面々が,ウクライナ,キエフのバレエ学校で見つけたのがノンナ・ペトロワである。劣等生であったノンナの成長,そしてソビエトバレエ界の「金の星」と称されていたユーリ・ミロノフとのことなど,続きが待ち遠しい展開だった。

完結後,40年以上がたっているが,私の心の中に「アラベスク」のこともウクライナ,キエフという名称もずっと残っていた。けれど,実は,今回のことで私は初めてウクライナがどこに位置するのか,キエフがどこにあるのかを知ったのだ。物語の中で,どんなに好きでも自由に職業が選べない状況,自由な表現を求めて亡命するダンサーもえがかれていたが,ソビエトだものねと思ったくらいだった。それはたぶん地政学的なことは,この物語を読むにあたって私にとって重要なことではなかったからだと思う。

 

ウクライナについて,連日,さまざまな情報が目にも耳にも入ってくる。ちょっと聞きかじったことで自分の考えが変化していく。ちゃんと知っているのか,よく考えたのかと一瞬立ち止まってみると自信がないことがとても多い。ウクライナのことが頭から離れない毎日だが,ちょっと待て。パレスチナとイスラエル,シリア,アフガニスタン……。戦争状態だったり,内戦がおこっていたり,政情が不安定な国はほかにもあるのに,今ほどの関心を寄せてこなかったことに思い当たる。

 

過剰な情報の中で何をつかんで進んでゆくか。教えられたり見聞きしたりするだけでなく,それらに対して自ら探究できる力が,やはり不可欠なのだと思う。今さらだが,現在の学習指導要領は,そんな力を子どもたちに獲得してほしいと策定されたのだろう。知り得た知識がどのように展開していくのか予測できない世界をどのように生きていくのか。教科書,そして学習教材を発行する私たちは,そのことを胸に制作を続けなければならないのだ。


 

『アラベスク』完全版全4巻,お読みになりたい方はお声がけください。



(15:36)

2021年08月27日

雨が降りそうだなあと思いながら,今日を逃したら終了してしまうと思い家を出た。

7月10日から8月22日まで,長野県立歴史館で開催されていた企画展,「青少年義勇軍が見た満州 ―創られた大陸の夢―」。信濃教育会のエントランスホールでチラシを見つけて以来,急かされるように行かなければ,と思い続けながら一日延ばしにしてきて,明日が終了日だった。

 

父は,14才の時,青少年義勇軍の一員として当時の満州に渡った。九死に一生を得て帰国を果たし,その後は,たぶんごく普通の人生を送ったのだと思う。ただ,当時の記憶は消し難いもので,時折満州の話をすることがあった。父が所属していた頓所中隊の仲間と作った拓友会という会の活動を精力的に行い,会では体験集を出版し,慰霊のために中国に行き,父たちの体験をもとにした映画も作られ,テレビのドキュメンタリーにも出演した。

父の話で覚えているのは,満州で見た地平線に沈む信じられないくらい大きな真っ赤な夕日の話。ソ連の参戦による逃避行の話。木の根を食べて何とか命をつないだこと。動けなくなった友達を置いてきてしまったこと。たどり着いた収容所,厳寒の中,毎日のように友が死んでいったこと。弱ってきた父の面倒を一生懸命みてくれた友のこと。何とか助かりそうな子どもを中国人に預けることになり,最後に名前を呼ばれたこと(収容所に残された子どもたちは一人も春まで生き延びられなかったそうだ)。中国の人々がとても親切だったこと。

そのくらいのことしか,私は知らない。若いころ,私は父の満州の話を聞くのが嫌いだった。曰く言い難い迫力というか,いつもの父と違ったまなざしというか,父の特別というか,今の家族との生活とは全く違う世界を感じたからではないかと思う。そして今,やっと当時のことを,父の人生を知りたいと思うようになった。

私の祖父は,教師だった。通常,満州へ行けば広大な土地を手に入れられると聞かされ,農家の二男,三男が多く参加を決めたといわれているが,父はどうだったのだろう。衛生兵につけていずれは医者にするということだったと聞いているが,勧誘者側である教師の子どもの父の参加は,勧誘にいいように使われなかったのだろうか。祖父はどう思っていたのだろう。今ならじっくりと父の話に耳を傾けることができるだろうに,父はもういない。

 企画展は,当時の状況,教師たちの勧誘状況をまとめた郡市教育会の多くの資料,当時の中国大陸の状況を示した地図,逃避行の前の義勇軍の子どもたちの日々の生活の様子など,多くの資料が展示され,非常に興味深いものであった。熱心に見入る人も多く,会期中に図録が完売したのは初めてと職員の方が話しておられた。知りたかったことすべてがわかったわけではないが,満州の地で生きる子ども時代の父の姿をいきいきと思い浮かべることができた。

 

父が亡くなった折,私は満州にかかわる様々が詰まった段ボールをいくつか母から預かった。生前,父はいつか本を出したいと言っていたのに,私は何もできなかった。もう何年もたつが,預かった資料はそのままである。

 

信教出版には,今までの集大成として本を出したいと尋ねてくださる先生方が何人もいらっしゃる。昨年も今年も何冊かの書籍を出版することができた。しかし,持ち込んでいただく原稿だけでなく,消えていってしまいそうなさまざまな事柄についてテーマを見つけ,地道に考え続け,形にすることも私たちの重要な役割ではないかと思う。奮起したい。



(17:11)

2021年03月05日

注射が大嫌いだった。


幼稚園の頃は,予防注射のたびに逃げたり廊下で踏ん張って部屋に入ろうとしなかったり,挙句の果ての大泣きである。そんな記憶がかすかに残っている。

さすがに長じてからそんなことはないが,予防注射の時も採血の時も,顔を90度背けて決して見ない。昨年の人間ドックの折には,採血の際,ベテランの看護師さんに「大丈夫ですよ」と笑われてしまった。

そんな私にとって,テレビで見る新型コロナワクチン接種は,恐怖以外の何物でもなかった。

あんな長い針を,上腕に垂直に深く深く刺すのだ。痛いに違いない。骨に当たるんじゃないか,腕を突き抜けてしまうんじゃないかと,生きた心地がしなかった。

そんなことにドキドキしていたら,あれは筋肉注射で,欧米では一般的な注射である,日本では皮膚に浅く刺す皮下注射が主だがとお医者様が解説をしている場面に出会った。

…別な不安が生まれた。欧米では一般的?

ならば,日本の看護師さんは筋肉注射に慣れていないんじゃないのか。下手なんじゃないのか。ワクチンの安全性よりも,私にとっては,そっちの方が大問題だった。

 

そんなことを考えていたある日,姪が遊びに来ることになった。高齢の祖母を心配してなかなか訪れる機会がなく,本当に久しぶりのことであった。

姪の連れ合いは看護師さんである。ひとしきり近況報告をしたあと,私は彼に聞いてみた。

筋肉注射が不安であること,日本の看護師さんは筋肉注射,大丈夫なのかと。

大爆笑であった。

 

彼は,笑いをこらえながら丁寧に説明してくれた。

筋肉注射は,日本でも様々な場面でふつうに行われていること。よって,日本の看護師も十分に慣れているということ。注射をするときは,ただ針を刺しているわけではなく,筋や血管を避け最適な位置を選んでいること。学生時代,初めて生身の人間に注射をした時は本当に緊張したとのことだが,しっかりと訓練を積んでいるので何の心配もいらないと力強く話してくれた。

 

初めて知った。

注射のたびにお医者さんも看護師さんもその注射にとって最適な位置を慎重に選んでくれていたのだ。注射1本するにも,様々な心遣いがあったのだ。多分,どんな仕事もこんなふうにできているのであろう。(編集の仕事もまた然りだ。)

わたしは,みんなの不安を解消するために,このことを広く知らせるべきだと頑張ったが,彼にとっては言うまでもない当たり前なことで「必要ないと思いますよ」と更に笑われてしまった。
ええーっ!

 

わたしの不安は解消できた。相変わらず注射は嫌いだけれど,順番がきたら怖がらないでワクチン接種に臨もう。

ワクチンが効力を発揮し,来年度は,人と人とが直に親しく向き合えるような,そんな毎日が戻ってくるとよいと心から思う。

 

 

(懸命にお仕事に励んでいらっしゃる看護師の皆様,失礼なことを言って申し訳ありませんでした。)




(17:10)

2020年09月03日

私は,商店街の生まれだ。子どものころ,街は大変活気があり,商店街の役員をしていた父は,しょっちゅう会合に出ていて夜はたいてい留守だったようだ。もう覚えていないが,「うちは母子家庭みたいだ。」と小学生の私がよく言っていたと母がたまに言う。商店街は,お祭りなど様々な行事を盛り上げ,通りの街灯を新調したり,車社会に対応しようと広い駐車場を作ったり,とにかく活気があった。朝夕,家の前を大勢の通勤通学の人が通り,買い物をする人が通り,お祭りや売り出しには周辺から多くの人々が訪れた。

 そんな街も次第に活気を失い,今の市長さんが都会から帰ってきたときは,お母様に昼間は猫しか歩いていない,と言われたと新聞にあった。実際,人が減って1軒,2軒とお店がしまい,街はどんどん寂しくなっていったけれど,商店街の人や町の人たちは頑張っていたと思う。規模を縮小してもお祭りを盛り上げ,機会を見つけては活気を呼び戻そうとしていたと思う。

 そこにこのコロナ禍である。

 商店街で生まれ,商店街が大好きな私は,いつかコロナ禍が落ち着いたとき,街がなくなっていたらと思うと何とも言いようのない気持ちになり,今さらではあるけれど,できるだけ通販などに頼らず街のお店を使おうと努めている。(たぶん焼け石に水だけど。)けれどもこの状態が思いのほか長引き,新しい秩序ができ上り,買い物は通販しか知らない世代がほとんどの時代が来るかもしれない。

 学校はどうだろう。日本の教育は,先生と子どもたち,また,子ども同士が直接に触れあうことを前提とした対面教育をベースにしてきたというが,コロナ禍で休校もやむを得ない状況の中,改めて「GIGAスクール構想」の実施が急がれているようだ。しかし,報道などを見ると,効果を確信しているというより,まずは環境を整え,走りながら考えるという感じがする。

 いずれにしても,コロナというこの厄災は,長い間かかって人々が築いてきたものの形を変える大きなきっかけなのかもしれない。私たちの仕事も然り。何もわからない。ただ,臨機応変に対応していくしかない。何ができるか。これからである。


(20:33)