JH
2022年04月01日
ロシアがウクライナに侵攻して1か月と1週間がたった。4回目の停戦交渉が終了し,今までにない成果が報道されているが相変わらず戦闘は終了せず,TVでもネットでも,連日,悲惨な戦況が報道されている。
報道が始まったころ,ウクライナ,キエフ(ウクライナ読みのキーウとすることになったがこのまま表記する。)と聞いて,まず頭に思い浮かんだのは,ノンナのふるさとだということだった。1971年から集英社の少女漫画雑誌の草分け『りぼん』に連載されていた「アラベスク」の主人公で,当時夢中になって読んだ記憶がある。その後,白水社の『花とゆめ』で第2部の連載が始まり,足掛け5年の歳月を経て完結したバレエ漫画の金字塔である。
舞台は,1970年代のソビエト連邦(現在のウクライナ,ベラルーシなどを含む広大な国土を誇る社会主義国の雄)。新作バレエ「アラベスク」の主役モルジアナを踊る未完の大器を探すべく,ソビエト中のバレエ学校を訪れていたレニングラード・キーロフバレエ団の面々が,ウクライナ,キエフのバレエ学校で見つけたのがノンナ・ペトロワである。劣等生であったノンナの成長,そしてソビエトバレエ界の「金の星」と称されていたユーリ・ミロノフとのことなど,続きが待ち遠しい展開だった。
完結後,40年以上がたっているが,私の心の中に「アラベスク」のこともウクライナ,キエフという名称もずっと残っていた。けれど,実は,今回のことで私は初めてウクライナがどこに位置するのか,キエフがどこにあるのかを知ったのだ。物語の中で,どんなに好きでも自由に職業が選べない状況,自由な表現を求めて亡命するダンサーもえがかれていたが,ソビエトだものねと思ったくらいだった。それはたぶん地政学的なことは,この物語を読むにあたって私にとって重要なことではなかったからだと思う。
ウクライナについて,連日,さまざまな情報が目にも耳にも入ってくる。ちょっと聞きかじったことで自分の考えが変化していく。ちゃんと知っているのか,よく考えたのかと一瞬立ち止まってみると自信がないことがとても多い。ウクライナのことが頭から離れない毎日だが,ちょっと待て。パレスチナとイスラエル,シリア,アフガニスタン……。戦争状態だったり,内戦がおこっていたり,政情が不安定な国はほかにもあるのに,今ほどの関心を寄せてこなかったことに思い当たる。
過剰な情報の中で何をつかんで進んでゆくか。教えられたり見聞きしたりするだけでなく,それらに対して自ら探究できる力が,やはり不可欠なのだと思う。今さらだが,現在の学習指導要領は,そんな力を子どもたちに獲得してほしいと策定されたのだろう。知り得た知識がどのように展開していくのか予測できない世界をどのように生きていくのか。教科書,そして学習教材を発行する私たちは,そのことを胸に制作を続けなければならないのだ。
『アラベスク』完全版全4巻,お読みになりたい方はお声がけください。
2021年08月27日
雨が降りそうだなあと思いながら,今日を逃したら終了してしまうと思い家を出た。
7月10日から8月22日まで,長野県立歴史館で開催されていた企画展,「青少年義勇軍が見た満州 ―創られた大陸の夢―」。信濃教育会のエントランスホールでチラシを見つけて以来,急かされるように行かなければ,と思い続けながら一日延ばしにしてきて,明日が終了日だった。
父は,14才の時,青少年義勇軍の一員として当時の満州に渡った。九死に一生を得て帰国を果たし,その後は,たぶんごく普通の人生を送ったのだと思う。ただ,当時の記憶は消し難いもので,時折満州の話をすることがあった。父が所属していた頓所中隊の仲間と作った拓友会という会の活動を精力的に行い,会では体験集を出版し,慰霊のために中国に行き,父たちの体験をもとにした映画も作られ,テレビのドキュメンタリーにも出演した。
父の話で覚えているのは,満州で見た地平線に沈む信じられないくらい大きな真っ赤な夕日の話。ソ連の参戦による逃避行の話。木の根を食べて何とか命をつないだこと。動けなくなった友達を置いてきてしまったこと。たどり着いた収容所,厳寒の中,毎日のように友が死んでいったこと。弱ってきた父の面倒を一生懸命みてくれた友のこと。何とか助かりそうな子どもを中国人に預けることになり,最後に名前を呼ばれたこと(収容所に残された子どもたちは一人も春まで生き延びられなかったそうだ)。中国の人々がとても親切だったこと。
そのくらいのことしか,私は知らない。若いころ,私は父の満州の話を聞くのが嫌いだった。曰く言い難い迫力というか,いつもの父と違ったまなざしというか,父の特別というか,今の家族との生活とは全く違う世界を感じたからではないかと思う。そして今,やっと当時のことを,父の人生を知りたいと思うようになった。
私の祖父は,教師だった。通常,満州へ行けば広大な土地を手に入れられると聞かされ,農家の二男,三男が多く参加を決めたといわれているが,父はどうだったのだろう。衛生兵につけていずれは医者にするということだったと聞いているが,勧誘者側である教師の子どもの父の参加は,勧誘にいいように使われなかったのだろうか。祖父はどう思っていたのだろう。今ならじっくりと父の話に耳を傾けることができるだろうに,父はもういない。
父が亡くなった折,私は満州にかかわる様々が詰まった段ボールをいくつか母から預かった。生前,父はいつか本を出したいと言っていたのに,私は何もできなかった。もう何年もたつが,預かった資料はそのままである。
信教出版には,今までの集大成として本を出したいと尋ねてくださる先生方が何人もいらっしゃる。昨年も今年も何冊かの書籍を出版することができた。しかし,持ち込んでいただく原稿だけでなく,消えていってしまいそうなさまざまな事柄についてテーマを見つけ,地道に考え続け,形にすることも私たちの重要な役割ではないかと思う。奮起したい。
2021年03月05日
注射が大嫌いだった。
幼稚園の頃は,予防注射のたびに逃げたり廊下で踏ん張って部屋に入ろうとしなかったり,挙句の果ての大泣きである。そんな記憶がかすかに残っている。
さすがに長じてからそんなことはないが,予防注射の時も採血の時も,顔を90度背けて決して見ない。昨年の人間ドックの折には,採血の際,ベテランの看護師さんに「大丈夫ですよ」と笑われてしまった。
そんな私にとって,テレビで見る新型コロナワクチン接種は,恐怖以外の何物でもなかった。
あんな長い針を,上腕に垂直に深く深く刺すのだ。痛いに違いない。骨に当たるんじゃないか,腕を突き抜けてしまうんじゃないかと,生きた心地がしなかった。
そんなことにドキドキしていたら,あれは筋肉注射で,欧米では一般的な注射である,日本では皮膚に浅く刺す皮下注射が主だがとお医者様が解説をしている場面に出会った。
…別な不安が生まれた。欧米では一般的?
ならば,日本の看護師さんは筋肉注射に慣れていないんじゃないのか。下手なんじゃないのか。ワクチンの安全性よりも,私にとっては,そっちの方が大問題だった。
そんなことを考えていたある日,姪が遊びに来ることになった。高齢の祖母を心配してなかなか訪れる機会がなく,本当に久しぶりのことであった。
姪の連れ合いは看護師さんである。ひとしきり近況報告をしたあと,私は彼に聞いてみた。
筋肉注射が不安であること,日本の看護師さんは筋肉注射,大丈夫なのかと。
大爆笑であった。
彼は,笑いをこらえながら丁寧に説明してくれた。
筋肉注射は,日本でも様々な場面でふつうに行われていること。よって,日本の看護師も十分に慣れているということ。注射をするときは,ただ針を刺しているわけではなく,筋や血管を避け最適な位置を選んでいること。学生時代,初めて生身の人間に注射をした時は本当に緊張したとのことだが,しっかりと訓練を積んでいるので何の心配もいらないと力強く話してくれた。
初めて知った。
注射のたびにお医者さんも看護師さんもその注射にとって最適な位置を慎重に選んでくれていたのだ。注射1本するにも,様々な心遣いがあったのだ。多分,どんな仕事もこんなふうにできているのであろう。(編集の仕事もまた然りだ。)
わたしは,みんなの不安を解消するために,このことを広く知らせるべきだと頑張ったが,彼にとっては言うまでもない当たり前なことで「必要ないと思いますよ」と更に笑われてしまった。
ええーっ!
わたしの不安は解消できた。相変わらず注射は嫌いだけれど,順番がきたら怖がらないでワクチン接種に臨もう。
ワクチンが効力を発揮し,来年度は,人と人とが直に親しく向き合えるような,そんな毎日が戻ってくるとよいと心から思う。
(懸命にお仕事に励んでいらっしゃる看護師の皆様,失礼なことを言って申し訳ありませんでした。)