2021年11月05日

早いもので今年も,もう11月を迎えました。

ついこの間まで,暑い暑いと言いながら過ごしていたかと思ったら,いつの間にか日が暮れるのも早くなり,朝,出勤するために外を歩くときも手袋がほしいくらいに肌寒い季節になりました。

さて,そんな季節の移り変わりとともに,県内の小学校には,今年もすでに当社の「冬休み帳」の見本が配られていることかと思います。今回も今まで同様,県内の現役の先生方による編集委員会が熟慮を重ねて制作していますので,子どもたちにとって最適な内容の冬休み帳になっております。

当社の冬休み帳の特長は,なんといっても教科の学習ができるだけでなく,巻末の「自由な学習」のページで楽しい工作や,お正月の伝統的な行事にふれることができるところです。また,裏表紙には子どもたちが実際につくった工作を「ともだちギャラリー」として数多く掲載しているので,それを参考にして自分の作品づくりにいかすこともできます。

特に今年は,一時に比べだいぶ収まってきた感はありますが,コロナの第6波の心配もまだあり,あまり出歩かずに家にいようというご家庭も多くなるのではないかと思います。そんなときこそ,当社の冬休み帳でじっくり工作に取り組んでみたり,お正月の記事をきっかけにしておじいちゃん,おばあちゃんに自分の住んでいる地域の伝統行事を教えてもらい,語らいの機会を増やしてみたりできるのではないでしょうか。


冬休み帳,お求めはしんきょうネットまでどうぞ。


TY



(17:11)

2021年10月01日

 時は西暦1026年,中国・宋の時代,宋の都・開封で行われた高等文官任用試験に落ち,呆然と街を彷徨っていた彼は,中国の西域にある西夏という国から来た女と出会った。そして彼は,彼女が持っていた西夏の通行証に書かれていた西夏文字に強く惹かれ,西夏をめざしてシルクロードへ旅立つ決心をした。
 当時,勢力を拡大しつつあった新興国の西夏は,中国と西アジアを結ぶ交通の要衝で黄河の西側の「河西通廊」と呼ばれる地域の制圧をもくろんでいた。彼は,西夏に向かう途中,奇しくも西夏軍に捕えられて漢人部隊に編入され,西夏軍とともに「河西通廊」の西端の都市・敦煌へ向かうことになった。
 一方,敦煌を目指して進軍する西夏軍の先鋒を務めていた漢人部隊の部隊長は,残虐非道で漢人を蔑ろにする西夏王に対して密かに激しい敵意をもっており,西夏王に反旗を翻す機会をうかがっていた。
 いよいよ敦煌城に攻め入る西夏軍の本軍より先に敦煌城に入った漢人部隊は,敦煌を支配していた曹氏と手を組み西夏本軍を迎え撃つ決意をする。漢人部隊と敦煌軍は,西夏本軍が敦煌城に入ると同時に西夏王を討ち取る策略を立てるが,直前に西夏王に気付かれ失敗してしまう。
 その後,西夏本軍の攻撃を受けて大混乱する敦煌城の中を漢人部隊として駆け巡っていた彼は,敦煌太守である曹氏統領の屋敷の中で,曹氏が集めた莫大な財宝とともに夥しい数の古今東西の経典があるのを発見した。そこで彼は,「財宝はそれを所有する権力者のものだから権力者の命とともに滅びても仕方ないが,経典は違う,経典はただそこにあるだけで価値のあるものだ。」という強い思いに心を奪われる。

 燃え盛る炎の中,屋敷から経典を持ち出そうとする僧侶たちに向かって,
「この宝は私が何十年もかけて集めた,私だけのものだ。私が滅びるとき,この宝も私とともに灰になるのだ。」と言って狂ったように刀を振り回す曹氏統領に対し,彼は,
「それは違う。この宝はあなただけのものではない。だれのものでもない,かけがえのない宝なのだ。」と言って立ち向かい,最終的に経典を敦煌城から運び出すことに成功する。

 時は巡って西暦1900年,敦煌の砂漠にある莫高窟という石窟に,夥しい数の古今東西の経典が埋蔵されているのが発見され,誰が,いつ,なぜ,どのようにしてここに埋蔵したのかがミステリーとなった。
 ご存知のように,文化勲章を受章した著名な作家の井上靖氏は,このミステリーに対して『敦煌』という作品で一つの解釈を示した。この作品は緻密な時代考証のもとに書かれたため,世界中で翻訳され,中国では準正史として認められたほどのものなのである。
 この『敦煌』は,中国政府の全面協力のもと莫大な製作費をかけて映画化され,1988年に劇場公開された。当時CGなどはなく,シルクロードで長期のロケを敢行し,敦煌城も4億円をかけて復元したそうである。公開当時とても話題になったが,私はまだ観たことがなかった。そして,この夏たまたま観る機会があり,その迫力に圧倒されてしまった。特に,主人公の彼のあの言葉は胸に刺さった。
 翻って,現代の私たちが目にするもの,触れられるもの,知識として知っているもので,昔の人がつくり出したものについて考えてみると,それらの中には,もしそれを残そうとする人がいなかったならば,やがて自然に歴史の闇に埋もれてしまい,その存在を知ることができなかったものもあるのではないか。
 当たり前のことだが,久しぶりに尊くかけがえのないものを観たような気がした,この夏だった。
(N)
(※参考文献…井上靖著『敦煌』新潮社)


(10:29)

2021年08月27日

雨が降りそうだなあと思いながら,今日を逃したら終了してしまうと思い家を出た。

7月10日から8月22日まで,長野県立歴史館で開催されていた企画展,「青少年義勇軍が見た満州 ―創られた大陸の夢―」。信濃教育会のエントランスホールでチラシを見つけて以来,急かされるように行かなければ,と思い続けながら一日延ばしにしてきて,明日が終了日だった。

 

父は,14才の時,青少年義勇軍の一員として当時の満州に渡った。九死に一生を得て帰国を果たし,その後は,たぶんごく普通の人生を送ったのだと思う。ただ,当時の記憶は消し難いもので,時折満州の話をすることがあった。父が所属していた頓所中隊の仲間と作った拓友会という会の活動を精力的に行い,会では体験集を出版し,慰霊のために中国に行き,父たちの体験をもとにした映画も作られ,テレビのドキュメンタリーにも出演した。

父の話で覚えているのは,満州で見た地平線に沈む信じられないくらい大きな真っ赤な夕日の話。ソ連の参戦による逃避行の話。木の根を食べて何とか命をつないだこと。動けなくなった友達を置いてきてしまったこと。たどり着いた収容所,厳寒の中,毎日のように友が死んでいったこと。弱ってきた父の面倒を一生懸命みてくれた友のこと。何とか助かりそうな子どもを中国人に預けることになり,最後に名前を呼ばれたこと(収容所に残された子どもたちは一人も春まで生き延びられなかったそうだ)。中国の人々がとても親切だったこと。

そのくらいのことしか,私は知らない。若いころ,私は父の満州の話を聞くのが嫌いだった。曰く言い難い迫力というか,いつもの父と違ったまなざしというか,父の特別というか,今の家族との生活とは全く違う世界を感じたからではないかと思う。そして今,やっと当時のことを,父の人生を知りたいと思うようになった。

私の祖父は,教師だった。通常,満州へ行けば広大な土地を手に入れられると聞かされ,農家の二男,三男が多く参加を決めたといわれているが,父はどうだったのだろう。衛生兵につけていずれは医者にするということだったと聞いているが,勧誘者側である教師の子どもの父の参加は,勧誘にいいように使われなかったのだろうか。祖父はどう思っていたのだろう。今ならじっくりと父の話に耳を傾けることができるだろうに,父はもういない。

 企画展は,当時の状況,教師たちの勧誘状況をまとめた郡市教育会の多くの資料,当時の中国大陸の状況を示した地図,逃避行の前の義勇軍の子どもたちの日々の生活の様子など,多くの資料が展示され,非常に興味深いものであった。熱心に見入る人も多く,会期中に図録が完売したのは初めてと職員の方が話しておられた。知りたかったことすべてがわかったわけではないが,満州の地で生きる子ども時代の父の姿をいきいきと思い浮かべることができた。

 

父が亡くなった折,私は満州にかかわる様々が詰まった段ボールをいくつか母から預かった。生前,父はいつか本を出したいと言っていたのに,私は何もできなかった。もう何年もたつが,預かった資料はそのままである。

 

信教出版には,今までの集大成として本を出したいと尋ねてくださる先生方が何人もいらっしゃる。昨年も今年も何冊かの書籍を出版することができた。しかし,持ち込んでいただく原稿だけでなく,消えていってしまいそうなさまざまな事柄についてテーマを見つけ,地道に考え続け,形にすることも私たちの重要な役割ではないかと思う。奮起したい。



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